2008.08.31 (Sun)
2008.08.30 (Sat)
てんやわんや
「ねーね(私のこと) マニキュアしないの?」
そうなのだ。Ruruはマニキュア大好き!
オシャレ大好き!
彼女のオシャレはママ達のオシャレの感覚と違うようで
それをはっきり自己主張する。
「ご飯を全部食べたらしてあげる…」と囁くねーね。(伯母の私)
最初「お腹いっぱい」と残していた夕飯を
結局おにぎりにして全部平らげた。
…仕方ない。やるか…
彼女はしっかりマニキュアがどこにあるのか?把握していた。
塗ってあげたら満足そう。
「お姉ちゃんだったのね〜」と妹に一喝。
仕方ないね。彼女が所望し、約束を果たしたわけだから。
あらしの週末にピリオドが打たれた。
明日はのんびりできるかな?
2008.08.29 (Fri)
2008.08.28 (Thu)
2008.08.27 (Wed)
「そのときが来た」ということ?
もちろん受け取ることができなかったけれど、
後でかけ直すことができるのが携帯電話のいいところ。
かけ直すと意外な方からの電話。
急遽会うことになる。
他愛のない話の中、会ってなかった時期の話が積もり、
どれだけの時期会わなかったを嫌でも再確認させられ
改めてその時間の長さに驚く。
その間に必要なことは手にできたのだろうか?…と、
知らず思わず振り返る。不安な私に対して、
「私にとって必要な、十分な時間を過ごしたのだ」と言い聞かせる。
2008.08.26 (Tue)
そこにあったものは…
通常町営体育館を借り切って、悠々とのびのびと型の稽古をする。
今日は学校が始まって最初の稽古。
いつもの通り早めにいって、お掃除をしようと体育館に入ったとき
「ワッ」 お嬢様の奇声。
何事かと思った私は、「むやみに大声を出すのではない!」とお嬢様をたしなめ、いざ私もモップを取りに壇上脇にある倉庫の方へ一歩足を踏み入れて驚いた。
「なに?これ〜?」
壇上はまるで戦国武将が鎮座しているかのごとく、人がうずくまって見えた。倉庫には和太鼓。そして散乱した防具入れ。ここのところ変なことが続いている私にも、ついに○○が見えるようになったのかぁっ!(…の訳はないのだけれど、本気で驚いたニュアンスはかぎ取って欲しい)と思ったくらい、ひな壇のように剣道の胴がきれいに並べられていた。
どうやら帝京大学剣道部の練習が行われていたらしい。
夕方になって少林寺が始まるというので、壇上に並べて帰ったのだろう。
今日は肌寒かったこともあって、いつもなら颯爽と開ける窓も今日は迷っていた私。そこへ先生のご到着。「いかがいたしましょう?」とお伺いを立てると、お年を召したA先生の一言「それにしても臭いですね〜」 鶴の一声で窓は全て開け放つことに決定。(…確かに臭い)
しかし実はowner、中学時代に剣道部。
だからというわけではないけれど、並べられている胴をみたときに、防具特有の臭いと小手の中の(妙な)手のあそび(小手は結構ゆるめにつけていた)と汗のぬめりを一瞬で思い出した。あの臭さも妙に「懐かしい…」と思えるから不思議。そんなにまじめに剣道をしていたわけでもないのに…。
はじめに掃除、最後に掃除の(当時の)剣道部。
なぜか?ぞうきんも臭かった。もちろん竹刀も臭いし剣道着も臭い。竹刀の持ち手と小手は革でできているので洗うに洗えず、もちろん自分の防具ではないので歴代の先輩達の汗と涙が染みついて臭い。臭いばかりではなく、革がカパカパになっていてすごい状態になっている。頭にさらし手ぬぐいを撒いて面をつけるのだが、当然それも臭い。だいたいつけようとしてふとみると、前回の汗がシオとなって年輪のように浮いているんだからそれだけでもすごい絵だ。幸いにも私は忘れたことはないけれど、部員の中には何度か忘れ、「この間と同じものだぁ〜」と臭いタオルに目をつむってつけていた人もいた。「汗かけば一緒よ〜」という彼女はよほどの強者だったに違いない。
それにしても全てが臭う。臭い防具を着けて稽古するのだから、その臭いが移って当然道着も臭い。道着の臭さ+汗の臭いになるわけだから、稽古が終わった後は冗談抜きで全身臭い。臭いから毎回洗えるものは全て洗う!の気持ちで道着を持ち帰って洗うのだが、竹刀で思いっきり叩かれることを想定してか?道着の生地はかなり厚い→よって洗濯しても乾きが悪い→すぐかび臭くなる…やっぱり臭い(号泣)それにしてもあんな臭い部活によくいたものだ。大人になった今、あの頃の私を思いっきり褒めて上げたい。
だからというわけではないけれど、女子部はその臭さに絶えられず、当時発売したばかり?の「8×4」などの消臭剤を振りかけまくっていた(もちろん気休め。そんなの効くよしもない…)。男子部員との部室はかなり離れたところにあったので、防具は当然男子部員の部室へ放り込む(臭いが部室に来ないように)これだけ気をつけていた(つもり)にもかかわらず、今度は男子部員からブーイング。
「防具が女臭くて部室にたまらん!どこかへ持って行け!」結局放り出されてしまう、かわいそうな我らの防具…。
なんだか臭い話になってきた。
このBlogも臭くなりそうだ。
全くの余談になるが、同じ少林寺に子供を通わせているRさんは剣道部つながり。そのRさんも体育館に足を踏み入れた途端「懐かしい〜」と思わず口にし、先生に苦笑いされたという。
あれから○十年。防具の大きな改良はないとみた私。
練習には汗がお約束。だからといって防具にこびりついた特有の臭いは、知っているものには哀愁の香かもしれないが、一般の人には許されるものではない。
ああ剣道部…臭いとの戦いはいつの時代も変わらないらしい…
2008.08.25 (Mon)
お嬢様と一輪車
いじめ克服ではないけれど、どうやら一輪車に乗れないことも
その要因の一つらしい。
「…ママァ〜宿題やりたくないの」とのたまうお嬢様。
「じゃあ、身体を動かしなさい」と、遠慮のない母は、
一輪車に乗るように指示をする。
壁に捕まってフラフラ…だったので、
思いあまって手をさしのべた。
「お腹で地球の真ん中と、握手する感じだよ」
するとそろそろ〜っと手を放しだした。
今日みたら10mくらいは一人で走っていたようだ。
運動神経は悪くないらしい。
また新しい世界が一つ開けたらしいお嬢様。
こうして乗り回した後の宿題は、
かなりはかどると思うのは気のせいだろうか?
2008.08.24 (Sun)
2008.08.23 (Sat)
2008.08.22 (Fri)
2008.08.21 (Thu)
2008.08.20 (Wed)
2008.08.19 (Tue)
納豆と鯛
栄養もあるし何しろ食べやすい。
カップを空けてかき混ぜて、
おしょうゆとからしと削り節を入れ、
最後にごまを少々。
熱いご飯に掛けて食べるのが好き。
納豆は昔嫌いだった。
ネバネバしているし、何となく臭い。
納豆嫌いを決定したのは、「納豆汁」の存在。
母の田舎では七草粥の変わりに「納豆汁」を食べる。
従兄が納豆餅を31切れ食べて気持ち悪くなったことも輪を掛けた。
とにかく食べられなかった納豆。
食べられるようになったきっかけは、やはり母の田舎で作る
「おみ漬け」(漬け物)を納豆に入れて食べるようになってから。
納豆だけでOKになるには、まだまだ時間がかかった。
納豆のバリエーションはまだまだ増える。
以前テレビで見た衝撃の映像は、納豆をカレーにトッピング。
最初「うげ!」と思ったけれどやってみると案外おいしいもので
一人暮らしの時には、生卵と納豆のトッピングが
レトルトカレーの定番メニューに変わっていた。
一方鯛はとにかく食べにくい。
小骨が多く、骨も硬い。
以前骨を喉に引っかけて、正月草々何も食べられなくなってしまい
仕事始めだった病院に駆け込んで、
ピンセットで取って貰ったことがあった。
滅多に食べないけれど「腐っても鯛」
やはり鯛は風格と威厳を持って存在する。
納豆は「ねば」ならない。
鯛は〜し「たい」。
私の中にある納豆と鯛も同じ。
何かと併せてやってみる、工夫が必要な行動と
やることは決まった型があり、共通性がある。
それ自体の克服は困難だけど、根気強くやればできること。
…さて、どちらから取りかかろうか?
2008.08.18 (Mon)
2008.08.17 (Sun)
4ヶ月16週間
その集大成をご披露しましょう。
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神楽坂を上り切る頃、左に見えてくるのが毘沙門天。その向かいの「福屋」の看板には「毘沙門せんべい」と書かれている。確かにこの店の看板商品は「毘沙門せんべい」だが、名物は「勘三郎せんべい」のほうだ。まだ店先でせんべいを焼いていた頃、17代(先代)の中村勘三郎が「もっと焦がせ」と注文をつけたところから生まれたという。特別注文として応じるうちに、他の客からも所望され、「勘三郎せんべい」と名付けて売るように。先代は魚でもパンでも焦げていなければ気が済まなかったらしい。「勘三郎せんべい」が登場するまで、せんべいの焦げた部分だけ食べては残りを弟子に渡すので、弟子たちは割れたせんべいしか食べられなかったとの逸話もある。
(2005年10月14日 朝日新聞 君島佐和子「逸品ものがたり」より)
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これを私が書き換えると下記の通りになるのです。
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1)面白がっているような表現に
「勘三郎せんべい」をご存じだろうか?
写真で見ると焦げが多く、一見失敗作のせんべいを集めたように見える。しかしこれがれっきとした商品。なんでも17代(先代)勘三郎の好みというからなお驚きである。
販売元は「福屋」。場所は東京神楽坂の毘沙門天向かいにある。
看板商品に「毘沙門せんべい」があるけれど、名物は「勘三郎せんべい」。
看板商品と名物が違うというのも面白い。
もともとこの商品は、店先でせんべいを焼いていた頃生まれた。
先代中村勘三郎が、焼き職人に「もっと焦がせ」と注文をつけたという。
その特別注文に応じている中で生まれたのがこのせんべい。
意外なことに他の客からの所望も多かったし、なにより焦げせんべいを焼かされて、逆手に取った職人の知恵か?「勘三郎せんべい」と名付けて売るようになったらしい。
先代の勘三郎は、魚でもパンでも焦げていなければ気が済まなかったという。だからこのせんべいが売られるまで、先代はせんべいの焦げた部分だけ食べて残りは弟子に渡していた。
「割れたせんべいしか食べられない」と言っている弟子たちも、先代勘三郎の人柄がわかるからこそ苦笑しながら食べていたに違いない。
こんな話が残っているというのも一興。
神楽坂・せんべい・勘三郎いずれも独特の味がある。
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2)小さい子供にわかるような表現に
これからお話をするのは、神楽坂の「福屋」名物、「勘三郎せんべい」のお話です。
神楽坂(かくらざか)というところは今でも下町情緒が残っているところ。「福屋」はそんな東京神楽坂の毘沙門(びしゃもん)のそばにあるお店です。
その看板に大きく書かれ、表向きの代表的な商品になっているのは「毘沙門せんべい」ですが、有名なのは「勘三郎せんべい」です。
まだ店先でせんべいを焼いていた頃のこと。
歌舞伎役者の17代(先代)中村勘三郎(1909-1988)(今の勘三郎のお父さん)がこのお店を気に入ってよく通っていたときに、「もっと焦がせ」と注文をつけて焼いて貰っていたそうです。今で言うオーダーメイドですね。
そんな注文で応じるうちに他のお客さんから欲しいと言われ、だったら「勘三郎せんべい」と名前を付けて売りだしてみようと思ったのでしょう。お店の人も考えたね。
先代の勘三郎は、魚でもパンでも焦げていなければ気が済まなかったと伝えられています。ですからこの「勘三郎せんべい」が登場するまで、せんべいの焦げた部分だけ食べては残りを弟子に渡していたので、弟子たちは割れたせんべいしか食べられなかった、と言う話が残されています。
商品開発や新しいものの創作は、こんな小さな知恵や機転から生まれてくるのです。
名物ができる背景を知るのって面白いですね。
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3)部下が上司に伝えるような表現に
神楽坂の毘沙門天向かいに「福屋」ってお店があるんですが、看板には「毘沙門せんべい」と書かれているのに、名物は「勘三郎せんべい」だそうです。ご存じでしたか?
看板商品と名物商品が違う話はよくありますが、その誕生秘話が面白いんです。
まだ福屋の店先でせんべいを焼いていた頃、17代(先代)中村勘三郎が贔屓にしてて「もっと焦がせ」と注文をつけたそうです。
何しろ相手は先代勘三郎。店にしてもお得意様ですよね。
ご贔屓にして頂いているお客さまの特別注文にオーダーメイドで応じるうちに、他のお客さんからも欲しがられるようになったそうです。
そこで店の人は考えたんでしょう。いっそ「勘三郎せんべい」と名付けて売るようにしてはどうか?…と。そして商品化されたのがこの「勘三郎せんべい」。まさにカスタマーサービスから生まれた商品ってわけです。
かくいう私も先代の好みってどんなのか?一度は口にしたいと思いますもの。そんな感覚なんでしょうかね?
先代の勘三郎は魚でもパンでも焦げていなければ気が済まなかったそうです。
聞いた話によると「勘三郎せんべい」が売られるようになるまで、先代はせんべいの焦げた部分だけ食べては残りを弟子に渡していたそうです。まるでわがままな子供がそのまま大人になったような話ですけど…
ま、それはともかく、弟子たちは割れたせんべいしか食べられなかった、と言う逸話が残っているくらいだったそうです。
…ビジネスって本当に意外なところにヒントがあるんですね。
「勘三郎せんべい」からこんなヒントが貰えるとは思いませんでした。
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4)哲学的な表現や哲学用語を用いて表現
東京神楽坂を登り切ったところにある毘沙門天善国寺。山手七福神の一つに数えられている神楽坂の毘沙門天は、「芝正伝寺」「浅草正法寺「と共に江戸三毘沙門天と呼ばれていた。その向かいに店、名は「福屋」。その看板と壁には大きく「毘沙門せんべい」…確かにこの店の看板商品は「毘沙門せんべい」らしい。だが今ではすっかり「勘三郎せんべい」の方が有名。昔ながらの手焼きせんべい手法を守るこの店の名物商品だ。
まだ店先でせんべいを焼いていた頃、焼きの職人技を見ている客の中に17代(先代)中村勘三郎がいた。なんでも先代勘三郎は魚でもパンでも焦げてなければ気が済まなかったという。ゆえに「もっと焦がせ」とせんべいの焼き方に注文をつけたのは想像に難くない。特別注文として応じるうちに、他の客からも所望され、ついには「勘三郎せんべい」と名付けて売るようになったらしい。
「勘三郎せんべい」が登場するまでというもの、勘三郎はせんべいの焦げた部分だけ食べていたという。残りを弟子に渡すので、弟子たちは割れたせんべいしか食べられなかったとの逸話もあるほどだ。
店の軒先で交わされた会話の中から「勘三郎せんべい」は生まれた。私はまだ食べたことがないが、焼きの職人が一人のせんべい好きのために焼き上げたことは想像に難くない。こうして誕生秘話を知るとなおさらに味わい深いモノに変わる。
「勘三郎せんべい」。逸話を知った今、神楽坂へ行ったら私の目に真っ先に飛び込んでくるに違いない。そのせんべいを口にしたとき、私は一体何を思うのだろう。今からその日が楽しみである。
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5)遠い昔の思い出のような表現に変えてください。
東京神楽坂は庶民の生活の残る街。その神楽坂を登り切る頃左に見えてくるのが、毘沙門天。そのお向かいに見えるのは「福屋」。看板には「毘沙門せんべい」と書かれているその店には看板商品「毘沙門せんべい」が置かれている。確かに看板商品は「毘沙門せんべい」、だが名物は他にある。その名も「勘三郎せんべい」。
昭和がまだ色濃く残る頃。福屋はせんべいを店先で焼いていた。
せんべいの醤油の焦げる匂いに誘われて、立ち止まって見ていた客の中に17代(先代)中村勘三郎の姿があった。魚でもパンでも焦げていなければ気が済まなかったらしい先代勘三郎は、「もっと焦がせ」と職人に注文をつけていたという。特別注文として応じているうちに他の客からも所望され、ついには「勘三郎せんべい」と名付けて売るまでになった。
それまで勘三郎はせんべいの焦げた部分だけしか食べず、残りを弟子に渡すので、弟子達は割れたせんべいしか食べられなかったとの逸話もある。子供のように無邪気に職人に所望する姿に、勘三郎の人柄が偲ばれる。
客と職人との会話の中で生まれた一品。
客のこだわりと職人の寛容が織りなした芸術品とも言えないか。
客と職人との直接対話が少なくなった今、このような名物品が生まれることは稀である。
勘三郎せんべいは逸話も含めて、味のある一品として皆に愛され続けている。
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6)自分の一番好きなように表現してください。
神楽坂には江戸情緒が色濃く残る。昔は殆どが階段だったという神楽坂を登り切った頃に、左に見えてくるのが毘沙門天。その向かいにある「福屋」の看板には「毘沙門せんべい」と
大きく書かれている。確かにこの店の看板商品は「毘沙門せんべい」、だが名物は他にある。その名も「勘三郎せんべい」。
まだ店先でせんべいを焼いていた頃のこと。客の一人に117代(先代)の中村勘三郎がいた。店先で醤油の香りに誘われてふらっとやってきた勘三郎。もともと魚でもパンでも焦げていないと気が済まない質だったことから「もっと焦がせ」と子供のように注文したに違いない。
売り物になるかならないかのギリギリのところで応じた職人との阿吽の呼吸。自分のために焼き上げられた一枚を頬張る勘三郎の満足げな様子を想像するに難くない。
そんな特別注文に応じているうちに、他の客からも所望され、「勘三郎せんべい」と銘打って商品化。そして今に至る。
「もっと焦がせ」と注文をつけたと勘三郎。そしてそれに答えた職人。その様子を見守っていた観客は、ハラハラドキドキだったに違いない。
そこから生まれた職人の作品は、特別注文から名物へと成長した。
勘三郎のこだわりから生まれた一品。
職人では考えられない焼き方であっても望む人がいる。
客と職人の会話があった時代の話。
「勘三郎せんべい」が登場するまで、せんべいの焦げた部分だけ食べては残りを弟子に渡していた勘三郎。弟子たちにしてみれば割れたせんべいしか食べられなかった笑い話が、勘三郎が亡くなってからはそれが逸話となる。
味覚の思いでは忘れがたいという。
神楽坂に、せんべいに、そして弟子達の味覚の中に。
先代勘三郎は今でも息づいている。
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いかがだったでしょう?
ちなみに「福屋」はこちら→

「勘三郎せんべい」はこちら→

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
もしよろしかったら、私の作品への率直な感想をお願いいたします。
2008.08.16 (Sat)
2008.08.15 (Fri)
2008.08.14 (Thu)
2008.08.13 (Wed)
2008.08.12 (Tue)
課題が終わらない
卒門まで残すところ数日だけど、その間出かけてしまうこともあり、
なんとか終えようと必死になっている私。
得意なのは文章題。文章の「らしさ」や構成を探るのは時間を掛けずにできるのだけど、
瞬間を切り取るのは苦手。
この辺りに「ポスターが苦手」だったことや「やっちこぴーが苦手」だった片鱗が伺える。
いずれにしても型を得るのが今回の目的。
早く課題を終えて、次のことに取りかかりたい。
そう思えることに出会えたのは幸せ。
…ごちゃごちゃ言ってないで、早く取りかかろう…(涙)
2008.08.11 (Mon)
2008.08.10 (Sun)
2008.08.09 (Sat)
2008.08.08 (Fri)
2008.08.07 (Thu)
2008.08.06 (Wed)
2008.08.05 (Tue)
仙台の七夕
どこかへ連れて行ってあげたいと思ってあれこれ考えたら、仙台の七夕がいいかな?ということに。そこで四半世紀前の出来事をふと思い出してしまった…
その日私は仙台で待ち合わせていた。相手は寮で一緒のK。お互い各停電車で1〜1.5時間程度との距離とわかったので、時間だけはたくさんあった学生。ならば異国の地(と言うほどでもないのだが…)で待ち合わせよう、と言う話だったように思う。
本当は私が先に到着することになっていた。しかし車両故障のため1時間近く遅れてしまい、Kが先に到着するようになった記憶が。今のように携帯電話があるわけではないし、連絡のつけようがない。やけに慌てた思いがある一方で、改札口に心配そうに立っていたKの姿が目に焼き付いている。再会した二人。私は申し訳なく思いながらとにかく町中に繰り出すことに。当時私は仙台に殆どご縁がなく、実はこんなに近くに住んでいながら全く行ったことがなかった。進学に際しても全く眼中になかった当時の私。今にして思えば友人と遊びに行っても良さそうなのにねぇ…。(言い換えればそれだけ箱入りだったということだけど)
東京に馴れ始めていた私達にとって、仙台は不思議な町に見えた。人がほどよく集っているその場所で、いつも2人で歩いていた自分たちの世界を保ちながら、そのまま風景だけが変わっている感じ。いつもと違う場所で再会しているというのがこんなに新鮮だったとは思いもしなかった。Kは何度かこの地に足を踏み入れているようで、場馴れた様子で歩いていたのが印象に残る。
そのうちどんな話からだっただろうか?私達はパチンコ屋さんにはいることになった。多分私が「まだ一度もやったことがない」と口走ったことからだったと思う。そういうKも当時は馴れていたわけでは決してないがそこは若さ。2人で「えいっ」と飛び込む。
…ここまで書いて思いだしたことは、筒のようなところの下に両手を置いてパチンコ玉を落としたこと。当時の私にとっては、パチンコ玉特有の重さが大人の重さだった。ふと見ると「これを使うんだよ」と、知らないおじさんが箱を指さした。「そりゃそうだよなぁ…手で受けたのでは危ないものね…」と納得するも、両手がふさがっているから箱にも移しようがない。なんとか人の助けを受けながら、無事箱へ移動。席を探す。
Kと仲良く坐ってレバー操作。結局すぐに受け口に吸い込まれ、一度のヒットもなく敢えなく終了。ファーストラッキーという言葉がこの業界にあるかどうかはわからないが、少なくとも私には訪れなかった。
喋る場所が移動しただけで新鮮だったから、街の様子は全く覚えていない。もちろん七夕の様子も。例え蘊蓄言われても針も振れなかっただろうあの頃。覚えているのがパチンコ玉の重みだけというのも寂しい話。
明日お嬢様と姪と一緒に出かけることになった、仙台七夕。
大人になって見ることはないだろう…と密かに思っていたけれど、もしかしたらあの頃の私達と再会できるかもしれない…と、実は私が結構楽しみだったりする。
2008.08.04 (Mon)
2008.08.03 (Sun)
誰に聞いて欲しいの?
そこでマジッククエスチョン「誰に聞かせたい?」
答えはもちろん様々…
身近なところから審査員までと、ターゲットが様々ならば目的もバラバラ。
その中で目を惹いた答えが3つ。
ちょっとはにかみやさんの「亡くなったおじさんに聞かせたい」
引っ込み思案さんの「成績が伸び悩んでいて、苦しんでいる男友達に聞かせたい」
とてもまじめさんの「ネットで知り合ったあの子に聞かせたい」
その気持ちに気付いて欲しい。
その気持ちを存分に表現して欲しい。 …これらは大人になってわかったこと。
そして
気持ちに気付くことや、その気持ちの表現のことは
全く考えてなかった高校生の私。
16〜18歳の合唱は、だから心を打つのだろう。
2008.08.02 (Sat)
2008.08.01 (Fri)
